トーハク「アラビアの道」展行ってきました。
- さえ
- 2018年11月30日
- 読了時間: 5分
更新日:2018年12月1日

※この記事は2018年1月28日に別ブログに投稿した記事の再録です
さて、実質初めての投稿だが、今回は本日いってきた東京国立博物館特別展「アラビアの道」展について書きたい。
実は筆者は12月16日に横浜情報文化センターで行われた「アラビア半島の文化遺産保護の現状と展開 サウジアラビアを中心として」という講演会を聞きに行ったのだが、その際に聞いた話では、今サウジでは文化保護の動きが活発であるという。
キング・ファイサルセンターなどでサウジの文化や歴史を守っていく運動をしているという。
そのような動きのなかで、日本とサウジの関係を深める役割も今回担っているという。
さて、こんなところで、実際の展示について語っていきたい。
入場料に関してだが、なんと総合文化展、あるいは特別展のチケットを持っていれば入れるため、筆者を含め筑波大学生などは学生証さえあれば入れてしまうのだ。
📷
さて、表慶館にはいるとすぐに、3体の石像が目に入ってくる。
サウジアラビアの先史時代から展示は物語られ始めるのである。
起源前4千年ごろのものであり、移牧民や遊牧民が祭祀施設にたてたと推測される石像であり、先史時代に特徴的なシンプルさであると表されていた。
あいにく写真はないが、ポスターなどで中心に配されているあののっぺらぼう的な石像である。
奥の部屋に入ると、サウジの石器時代の展示が始まる。
そのため、「緑のアラビア」と呼ばれていたらしい。
驚きである。
紀元前2000年紀になると、アラビア半島は「幸福のアラビア」といった名前でも知られていくのだが、なんと緑のアラビアとも呼ばれていたとは。
なんとも驚きである。
📷
さて、そんなアラビアは香料の山地としても有名であった。
じっくり展示を眺めていると、石像にシュメルの影響がみられたりしてくる。
タールート島出土の「祈る男」像が象徴的だろう。
この起源前2900年ごろの石像、顔立ちとポーズはシュメル美術の影響と言われている。
他方、像の大きさと服装は湾岸地方独特のものであるという。
なるほど、面白い。
あいにくと、考古学にはそこまで触れてこなかったために、これだけで深ぼることは難しいが、すでにシュメルと深い関係にあったということをそういった美術品からも推測できるというのはなかなかに興味深い。
更にはウバイト土器やイランの石製容器やインダス式彩文土器もタールート島からは出土しているという。
他にもアラビア湾式印章やディルムン式印章が展示されているので、もしいかれるのであれば、よく見てほしいものだ。
📷
さて、時代が新しくなり新バビロニアの時代になると、最後の王であるナボニドゥスがタイマーに滞在していたことでしられている。
ナボニドゥスのステラも展示されており、もしかしたら楔形文字を読むことができるのでは...と期待したが、残念ながら砂岩製のためか、筆者には文字を認識することはできなかった。
📷
というか、文字が判別できなかった気がするのだが、どうやってナボニドゥスのものであると識別したんだ...??
他にも文字が刻まれた資料としてはアラム文字やラテン語、ダーダーン文字などが出てきたのだが、それらが文字としてしっかり認識できたのとは大違いである。
📷
さて、アラブという言葉は紀元前7世紀のアッシリア王シャルマネセルの王碑文にはじめて出てきたという。
最古の言及によれば、キンディブという人物がアッシリアに敵対する王の一人として出てくる。
彼はカルカルの戦いでラクダ部隊を率いて他の連合軍とともにアッシリア軍に対抗したというのだが、やはりラクダというのは古代からのアラブにとっての友なのだろうか。
紀元前3世紀~紀元3世紀ごろのカルヤト・アルファーウ出土の像にはラクダが多かった。
さて、このカルヤト・アルファーウの主神・カーヒル、筆者は聞いたことがないのだが、読者の中には聞いたことがある方はいるだろうか。
もしご存じのかたがいたら、是非教えてほしいものだ。
他にも細かく書くと書ききれないほど、素晴らしい展示が多かった。
最後に展示されていた、予言者モスクのシリア扉のカーテンやカーバ神殿の扉など、圧巻である。
というか、いいのか、過去のものとはいえ、日本に貸してしまって笑。
偶像崇拝に抵触しかねないからいいんだろうか。
📷
📷
いずれにせよ、今回の展示のすべてを明細に言及するのは不可能である。
筆者は今回1時間半ほど過ごしたが、時間が許すのなら、是非ともあともう1度は行きたいものである。
これらを調べて、今後の学びの糧にしたいものである。
こういった地道な興味関心を繋げていくことで、遠いように感じるイスラーム諸国は実はそうでないと感じることができるのかもしれない。 📷
Comments